山崎街道とは西国街道を京都側
山崎街道とは西国街道を京都側から見たときの呼び名であり、西国街道とは山陽道のことである。山崎の周辺は、古くから交通の要衝として知られ、天王山の戦い(山崎の戦い)など幾多の合戦の場にもなってきた。この段の舞台は、横山峠、すなわち現在の京都府長岡京市友岡二丁目の周辺であり、大山崎町ではない。
与市兵衛はまったくのフィクションの人物だが、友岡二丁目に「与市兵衛の墓」なるものが残っている。近代に観光用客寄せとして作られたものではない。与市兵衛と妻の戒名が記されている。無念の死を悼み、現在に至るまで花を手向ける人が絶えない。
(参考)『長岡京市の史跡を訪ねて』長岡京市商工会刊 (この本では観光名所として取り上げられている)
別名:早野勘平住家の場
別名:早野勘平腹切の場
異名:愁嘆場
お軽は祇園女将お才と源六とともに売られていく。勘平も仇討のため身を売った女房の心遣いに感涙する。そこへ戸板に乗せられた与市兵衛の死骸が運ばれ大騒ぎとなる。勘平が持っていた財布から、射殺したのは舅ではないかと姑のおかやに疑われてしまう。勘平も夜の闇の中で何者か知らないで取った財布だけに、自身が義父を殺害したものと思い込んで動転してしまう。そして訪れた同志(二人侍 千崎弥五郎、原郷右衛門)からも、駆け落ち者からの金は受け取れない、ましてやそのために悪事を働くとは何事か。「喝しても盗泉の水を飲まずとは義者のいましめ、舅を殺し取ったる金、亡君の御用金となるべきか。亡君の御恥辱。いかなる天魔が見入れし」とさんざんに責められる。
切羽詰った勘平は切腹。やがて勘平の疑いは晴れ、知らぬうちに養父の仇討をしたことが分かる。だが遅すぎた。同志の心遣いで瀕死の勘平の名は討ち入りの連判状に加えられる。涙にくれるおかやと同志に見守られながら勘平は息絶え「さらば、さらば、おさらばと見送る涙、見返る涙、涙の、波の立ち帰る人も、哀れはかなき」という悲痛な浄瑠璃で幕となる。
切腹し瀕死の勘平が後悔にふける「いかばかりか勘平は色にふけったばっかりに」というセリフが有名。
上方と関東では演出がかなり違う。たとえば、勘平が刃を腹につきたてるのは、関東では「うちはたしたは舅どの」の科白で同志が「なな何と」と叫ぶのをきっかけに行い、傷を調べ勘平の無実が晴れるのはそのあとである。上方では同志が与市兵衛の傷を改めている間、勘平の無実が晴れる寸前に行う。これは「いすかの嘴の食い違い」という浄瑠璃の言葉どおりに行うという意味である。また勘平の死の演出は、「哀れ」で本釣鐘「はかなき」で喉を切りおかやに抱かれながら手を合わせ落ちいるのが現行の型だが、這って行って平服する型(二代目実川延若)もある。これは武士として最期に礼を尽くす解釈である。また、上方は、勘平の衣装は木綿の衣装で、切腹ののち羽織を上にはおる。最後に武士として死ぬ意味である。関東は、お才らのやりとりの時に水色の絹の衣装に着替える。この時点で武士に戻るという意味であり、光沢のある絹の衣装で切腹するという美しさを強調している。論理的な上方と耽美的な関東の芸風の相違点がうかがわれる。
勘平は十五代目市村羽左衛門、初代中村鴈治郎、二代目実川延若、十七代目中村勘三郎がそれぞれ名舞台であったが、抜群なのは六代目尾上菊五郎の型である菊五郎は絶望に落ちて行く心理描写を卓抜した表現で演じ、現在の基本的な型をなっている。おかやは老巧な脇役が演じることで勘平の悲劇が強調されるのでかなりの難役である。戦前は初代市川延女、戦後は二代目尾上多賀之丞、五代目上村吉弥が有名、今は二代目中村又五郎が得意とする。祇園一力の女将お才は花車役という遊里の女性役を得意とする俳優が演じる。十三代目片岡我童や九代目澤村宗十郎が艶やかな雰囲気でよかった。お才につきそう判人源六は古くは名脇役四代目尾上松助の持ち役であったが、戦後は三代目尾上鯉三郎が苦み走ったよい感じを出していた。
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