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2009年03月 アーカイブ

2009年03月03日

カート・ヴォネガット

1922年11月11日 - インディアナ州インディアナポリスでドイツ系四世として生まれる。この日は第一次世界大戦の終戦からちょうど3年目。ヴォネガットは自分が「休戦記念日」生まれであることを誇りとしており、後に「復員軍人の日」と名称が変更された際には苦々しい思いを抱いたようである。
1940年 - コーネル大学で生化学を学ぶ一方、学内紙『コーネル・デイリー・サン』の編集局長を務める。
1944年5月14日 - 母エディス(Edith Vonnegut)が睡眠薬自殺。「母の日」前日のこの悲劇は、生活の困窮や息子のドイツ戦線配属を苦にしたものという。
1945年 - 戦地から帰還し、幼馴染のジェーン・マリー・コックス(Jane Marie Cox)と結婚。
1945年-1947年 - シカゴ大学大学院で人類学を学ぶ。博士論文は受理されず。
1947年-1950年 - ゼネラル・エレクトリック社に務める。
1950年 - 短編『バーンハウス効果に関する報告書』(Report on the Barnhouse Effect)でSF作家カート・ヴォネガット・ジュニアとしてデビュー。広告業などと並行して作品を発表。
1951年 - マサチューセッツ州ケープコッドに居を移し、作家専業に。
1952年 - 初の長編『プレイヤー・ピアノ』刊行。
1963年 - 『猫のゆりかご』刊行。批評家から好意的にむかえられる。以降、学生たちを中心に徐々に人気を得る。
1965年-1967年 - アイオワ大学創作科で教鞭を執る。ジョン・アーヴィングは同科在籍中、ヴォネガットの薫陶を受けた。
1966年 - 既刊の全作品がペーパーバックで再版。反体制の若者たちの間で、熱狂的に支持されるようになる。
1969年 - 『スローターハウス5』刊行。
1970年 - 妻ジェーンと離婚。ヨギに傾倒する妻と確信的無神論者であるヴォネガットの間の宗教上の不一致が原因という。ヴォネガットは後に、写真家・児童文学者のジル・クレメンツ(Jill Krementz)と再婚。
1960年代後半 長男マーク(Mark Vonnegut 尊敬するマーク・トウェインからとられた名前。ヴォネガットは「新世代のマーク・トウェイン」とよばれた)が統合失調症の発作に苦しむ。マークは後にこの体験を『エデン特急 ヒッピーと狂気の記録』(The Eden Express 1975 みすず書房より邦訳)としてまとめた。
1976年 - 『スラップスティック』刊行。以後の作品はすべてカート・ヴォネガット名義。
1997年 - 『タイムクエイク』のまえがきにおいて、同書が長編としては「わたしの最後の本」になると表明し、以降はエッセイやイラストの発表、講演等を中心に活動。
2007年4月11日 - ニューヨーク市にて死去[1]。

ドレスデンの経験と『スローターハウス5』
1944年、ヴォネガットはアメリカ合衆国第106歩兵師団の兵士として第二次世界大戦の欧州戦線に参加した。バルジの戦いで捕虜となり、連れて行かれていたドレスデンで、同盟軍(英米の空爆部隊)によっておこなわれた空爆(いわゆるドレスデン大空襲。芸術品と謳われたドレスデン市街は壊滅、死傷者が10万人を超えたともいわれる第二次大戦中のヨーロッパで最悪の爆撃)を経験した。

この深刻な体験は、(ヴォネガット自身は否定するが)彼が作家になる契機、作家としての彼の根源的体験とも言われ、20年以上の時を経た『スローターハウス5』において初めて顕示的に主題化された。「大量殺戮を語る理性的な言葉など何ひとつない」という言葉通りの奇妙な形式をもつこの半自伝的作品によって、ヴォネガットは現代アメリカ作家として決定的な評価を獲得することになる。

また、『スローターハウス5』では60年代の諸作品(『母なる夜』、『タイタンの妖女』、『猫のゆりかご』)とならんで、『チャンピオンたちの朝食』以降の後期作に受け継がれていく特徴的なスタイル(架空の人物の自伝的形態を採る、まえがきを持つ、イラストの多用、印象的な挿話を連ねる)が全面的に展開されたことでも注目される。

キルゴア・トラウト
ヴォネガットの作品には、慈善家エリオット・ローズウォーター、ナチ宣伝員ハワード・W・キャンベル・ジュニア、ラムファード一族、トラルファマドール星人などの架空の固有名が複数の作品にまたがって登場する。

なかでもスタージョンをモデルに造形されたといわれるSF作家キルゴア・トラウトはヴォネガット自身の分身とも言われ、『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』で初登場して以来、長編ではおなじみの人物であり、『タイムクエイク』では主役として活躍する。 『モンキーハウスへようこそ』以降、短編を著していないヴォネガットが、トラウトの小説のあらすじという形で短編用のアイデアを披露している点も見逃せない。

また、SF作家フィリップ・ホセ・ファーマーはキルゴア・トラウト名義で『貝殻の上のヴィーナス』(Venus on the Half-Shell 1975年)を発表し話題となった。

なお、ヴォネガット本人は「SF作家」とレッテル付けされるのを嫌ったが、一方で「現代の作家が、科学技術に無知であることはおかしい。」と主張し、ほとんどの作品でSF的なアイデアが使用されている。

その他
映画『バック・トゥ・スクール』(監督アラン・メッター 1986年)に、ヴォネガット自身の役で出演している。

日本での受容
日本においては1960年代後半から、翻訳家浅倉久志・伊藤典夫等によって精力的に紹介され、後の隆盛を準備した。
ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル

1980年代、日本でも認知がすすみヴォネガットブームとも言える状況が到来、主要な著作の大半が和田誠のカバーイラストを伴ってハヤカワ文庫SF(早川書房)より刊行され、多くのファンを獲得した。 ヴォネガットから影響を受けたとされる村上春樹(とりわけ『風の歌を聴け』)や高橋源一郎、橋本治等の若手作家たちの台頭もこの時期。

1984年には国際ペン大会に、ロブ=グリエ、巴金等と共にゲストとして来日し、大江健三郎とも会談。

爆笑問題の太田光はヴォネガットファンとして有名。彼らの所属事務所である「タイタン」の名称は『タイタンの妖女』と、『太田』の別読みをかけて付けられたものである。

また、漫画家である島田虎之介もヴォネガットからの影響を公言している。

2009年03月18日

ブラゴヴェシェンスキー大聖堂

ブラゴヴェシェンスキー大聖堂 [編集]
現在、カザン・クレムリンの建築中、最古とされるのが1554年から1562年にかけて建設された生神女福音大聖堂(ブラゴヴェシェンスキー大聖堂)である。同大聖堂は6つのピールと5つの張り出しを有する唯一のロシア正教会の16世紀における教会堂である。カザンの多くの建築物に見られるように、建設資材として煉瓦ではなくこの地方特産の砂岩を用いている。ちなみにこの大聖堂の設計者をポストニク・ヤコブレフであるとする説もあるが、推論の域を出ていない。大聖堂の鐘楼は、イワン雷帝の命により5層となった。鐘楼についてもモスクワ・クレムリンのイワン大帝の鐘楼 Ivan the Great Belltowerの類似が指摘されている。ロシア革命後の1930年ソビエト政府によって取り壊されたが、ソ連崩壊後に再建された。

スュユンビケ塔
スュユンビケ塔は、カザン・クレムリンのランドマークともいえる斜塔である。6層58メートルの偉容を誇るこの塔については資料が少なく、謎の多い建築としても知られている。建設された年代は、ピョートル大帝の時代ともいわれるが、一方でイタリアのサン・ステファノ・カリバリやボローニャのマジョーレ広場の影響を指摘する意見もあり、良くわかっていないのが実情である。スュユンビケの名称は、1800年にカザンが占領された際にこの塔から身を投げて亡くなった最後のカザン・ハーン妃の名前に由来するという。後述するスパスカヤ塔と構造上、相違点が大きい。スュユンビケ塔はクレムリン南端にあって、最下部はクレムリンへの主な出入り口として用いられている。歩行者制限は無いが、車両に関しては特に許可のある車両以外の通行は制限されている。

スパスカヤ(救世主)塔
スパスカヤ塔(スパースカヤ塔、救世主塔)の名称は、近くにあったスパースキイ修道院に由来する。1560年代にあった4つのピースを持つ聖ニコライ教会と、1950年代にあった6つの張り出しを持つ救世主変容聖堂は、修道院の一部だった。これらの寺院建築は、ロシア革命後、スターリン時代に撤去された。 カザン・クレムリンは城壁と塔によって囲まれている。これらは16世紀から17世紀にかけて建造され、その後、修復がおこなわれている。城壁と塔は、雪のように白く美しい。 城塞内部には、クル=シャーリフ・モスク(後述)が再建されて、白い城壁と一体化した美しい景観を形成している。イスラム建築とロシア正教会の教会建築が見事に融合し、調和の取れた景観を形作っている。
天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

クル=シャーリフ・モスク [編集]
上述したように、カザン・クレムリンには元来、イスラム教を信仰していたカザン・ハン国によってクル=シャーリフ・モスクが建てられていたが、イワン雷帝のカザン侵攻によって破壊された。そのモスクがヨーロッパ最大級のイスラム教建築として再建されたのが、2005年6月24日のことである。再建に当たっては、17世紀にモスクのあった敷地(士官学校の敷地になっていた)が選定された。
この4つのミナレットを備えたモスクが完成したことに対する祝賀会には、約40ヵ国から1万7000人もの人々が参集した。

この他、カザン・クレムリン内の重要な建築としては、コンスタンチン・トーン(トン Konstantin Thon)設計によるタタールスタン共和国大統領宮殿(大統領官邸、もとのカザン県知事宮殿)がある。大統領宮殿が建つ場所はかつてのカザン・ハーンの宮廷があったと推定される。大統領宮殿とスュユンビケ塔に挟まれる場所に宮殿教会がある。中世期にはモスクがあった。

カザン・クレムリンの北側の城壁には、もう一つ門が備えられた塔がある。この塔は、秘密の上水道を備えていたことからタイニツカヤ(秘密)塔の名が付けられている。タイニツカヤ塔も城門があり、クレムリンへ入ることができるが、車両の出入りは緊急時のみに制限されている。

ソ連崩壊後から現在まで [編集]
現代のカザン・クレムリン、そしてカザンを語る上で、ソ連崩壊とタタールスタン共和国大統領であるミンチメル・シャイミーエフの影響を除外する訳にはいかない。1990年8月タタールスタンは、タタールスタン共和国国家独立を宣言し、ロシア連邦政府と対等な国家関係を指向する政治路線を採った。この政治路線は時としてモスクワの連邦政府との間に緊張を孕むこともあったが、シャイミーエフの老練な政治手腕によって最悪の事態は避けられ、1994年2月には連邦政府との間に二国間条約を締結し独自路線を明確化することに成功した(その後、中央集権を指向するプーチン政権の誕生で、独自路線は修正を余儀なくされたが)。

こうしたタタールスタン独自路線の中で、1990年に大統領官邸となったカザン・クレムリンに対しては、発掘調査が行われ、ヴォルガ・ブルガールやカザン・ハン国の時代に忠実な修復作業が行われることとなった。

1995年シャイミーエフはクル=シャーリフ・モスクの再建を命令する大統領令を出す。同時に、ソ連時代に破壊された生神女福音大聖堂(ブラゴヴェシェンスキー大聖堂)も再建することで絶妙なバランス感覚を示した。両者は、タタールスタンの独自路線とロシアによる攻略によって失われた歴史を完全なものとするという意味において重要なモニュメントであった。2005年6月のクル=シャーリフ・モスク再建祝賀会でシャイミーエフは、祝詞の中で「クル=シャーリフ・モスクは、カザンとタタールスタンの新たな象徴であり、過去と未来を繋ぐ架け橋である」ことを強調した。7月21日には、生神女福音大聖堂(ブラゴヴェシェンスキー大聖堂)でロシア正教会総主教アレクシー2世とともに1万人の参加者を前にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世から返還されたイコン「カザンの生神女(Theotokos of Kazan)」を収める式典に出席した。


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